2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 5章17~20節

説教要旨   本日の場面は、山上の説教といわれる、マタイによる福音書5章はじめから続く場面の一部であります。その場にいた群衆、とりわけ弟子たちに対してイエスは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、(20節)」とお語りになりました。

 律法学者は律法について研究をしている専門家であり、ファリサイ派はそれを盾にとって、ユダヤの人々の生活を監視したり、指導していた人々です。ファリサイとはその語源から分離主義者ともいわれ、自分たちは一般のユダヤの人たちとは違うんだ、という意識をもっていました。ユダヤの宗教生活に於いて、最も大事な掟について、自分たちは一番詳しいし、また誠実に神の掟を守り実行している、という意識をもつ彼らの主張する義というものは卓越しているという思いがある。そういうところから生まれる意識をファリサイ主義といい、彼らはこの義の意識で律法を盾に取り人々を裁いていたわけです。

 イエス様は「裁いてはならない(マタイ7章)」といいます。我々の現実の中で、神の愛に基づく「ゆるし」が大事なのだと示します。という逆の事柄で迫るわけです。律法で裁こうとする人々に対して主イエスがとったやり方は(ヨハネ8章)姦淫の罪を犯した女性が石打で殺されそうになったときに、イエス様が「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と問い、女性の窮地を救った後に、主イエスご自身も「あなたを罪に定めない」という言い方をしています。

 主イエスの場合、ファリサイ派の義にまさる、義をもつということは、明らかに現実にある律法を完成させるご自身の神の愛の中に私たちも参与していく、神の愛による判断の仕方を言っています。だから私たちはこの旧約聖書の律法というものは大変大事な教えの数々だけれども、実際にはそれをこえた主イエスの神の愛の言葉を心にもつ。神の言葉に信頼する信仰がその愛の心を培う。これをパウロは、ローマの信徒への手紙10章10節で、「 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と示しています。

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