2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙二 12章1~10節

説教要旨   人類初の宇宙飛行士ガガーリンは、当初多くの人に空の上で神を見たかと尋ねられ「神は見えなかった」と答えたという。神をめぐる民衆の素朴な問いかけに誠実に答えたが彼自身は信仰者であったし、そのことで信仰の躓きを起こすことはなかったけれども「私の答えは人々をがっかりさせ、信仰を揺るがすことになったのではないか」と気遣っています。

 イエスの弟子トマスは復活のイエスに会ったと証言する他の多くの弟子たちを否定して、自らのまなこで確かめなければ信じないと言った。そのような彼に主イエスは現れて「見ないのに信じる人は、幸いである。(ヨハネ20章29)」とおっしゃった。私たちはこういうところからたとえ私たちが目で確認しなくとも、聖書の言葉に信頼し確信するのが信仰のもちようだ、と理解しています。もちろんそれは大事なことです。けれども、キリストを信じることは、哲学や思想概念ではなく、イエスのナマの十字架の死と、その死から蘇ったイエスの姿を見た、という証からスタートしています。ですから福音書というのはイエスを見たという証言です。誰それが何々を見たという新聞記事で言うならば目撃証言であります。

 今日の最初の部分で、パウロが語る「十四年前、第三の天にまで引き上げられた人」とは生きながらにして天の国に引き上げられたという体験を物語るものでしょう。科学的にはイエスの復活同様こういう証言は信じられないとされることかもしれません。続けてパウロが語るには、こういう体験を誇りとして自分が思い上がらないために、自分には「とげ」が与えられたと。そしてこの痛み(苦しみ)を取りのけるよう願ったところ「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(9節)」の言葉が示された、といいます。たとえ目に見える信仰上の体験がなくとも、それを誇りとしなくとも、むしろ一人一人の弱さや欠け多いところに神の恵みは溢れんばかりに備えられているのだと示されます。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、・・・神の力によってキリストと共に生きています(第Ⅱコリント13章4)。」

 信仰者としてのガガーリンも宇宙の大海原で自らの小ささを思いつつも、このかけがえのない地球を宇宙から眺めた時に神の恵み溢れる恩寵を心に感じ、「私たちの惑星はなんとすばらしいことか。この美しさを壊してはならない」と話していた、ということです。そのようなまなこで地球をみつめるとき、神様はどんなにかこの地球を恵みでみたし、慈しまれようとしているかが分かります。

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