2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 14章22~33節

説教要旨   今日のマタイ14章22節以下の出来事で、ペトロは主に倣い、湖の上を歩き始めるが、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ、という(30節)。主イエスに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。それは誰もが心覚えのある、「一瞬の出来事」です。

 ドイツの神学者カールバルトはこの箇所の説教で、それを「信仰の敗北」と言っている。確かにペトロは欠け多く、弱いと言えば弱い。「十字架にかかって復活する」と言われた主イエスを諫めたが故に逆に主から、「退け、サタン」と叱責されている。逮捕されたイエスを「知らない」と言って見捨て、十字架におかかりになったときには、みんなと一緒に逃げてしまいます。「信仰の敗北」と言われれば、ああ、まことにそうだと頷かざるを得ません。そこにはイエスの言う通り「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉に表されている、この「疑い」がある。私たちは確かに、この信仰の上に疑いを持つものです。神は本当にいるのか。神は頼りになるのか。神の力は本当にあるのか、と枚挙にいとまがないほどに出てくる、神への問いであります。私たちの信仰の中心は確かに神です。神があって、救いがある。この順序を間違うとえらいことになります。神がなくて、救いがあるものか、という話になります。

 東日本大震災で多くの人が被災しました当時辛かったのは、この世に神がいるならば、なぜこんな悲惨がもたらされたのか、という究極的な問いがあった。

 作家の三浦綾子さんが「泥流地帯」という、大爆発した十勝岳のマグマの泥流に飲み込まれ本当に多くの人々が亡くなった災害を取り扱った小説の中で、被災し度重なる災厄に遭う主人公をヨブになぞらえている。最後の場面で主人公が旧約聖書のヨブ記を開いて、なんだこれは、と。正しい者が災難に遭う話じゃないかと、驚いてひもとくうちに「神よりさいわいをうくるなれば、災いをもまた受けざるをえんや」という人間の言い得るものではない言葉に出会った、と言わせている。私たちは、災いよかれ、とは言えない。けれども、神は私を支配しておられ、私の傍らに常にいてくださる、共にいてくださる方だという、神の摂理との出会い、神に信頼するということに改めて心開かされる思いをするわけです。 主イエスご自身もあの十字架という不条理の極みにありましたが、私たちの信仰とは、この十字架を背負い立つ方の救いによってであった。あなたの苦難のどのような時にも共にいて下さる方としてイエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくださる。疑いを超えて確かに私たちの傍らに立ち、み腕を伸ばして下さるのです。

礼拝の説教一覧へ戻る