2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヤコブの手紙 1章12~18節

説教要旨   1章13節に「誘惑に遭うとき」だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりませんと示し、なぜなら「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないから」と説明している。むしろ14節、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」と示しています。

 人間にとって難しいことは、私たちは欲望の出所を自分と認めたくない存在だということです。創世記で神の言いつけに背いて禁断の木の実を食べてしまったアダムが、神様に何故お前は食べたのだ、と追及されたとき、アダムはこの女が唆したから食べたのだ、と責任転嫁します。イヴも蛇が唆したと責任転嫁する。

 パウロのローマの信徒への手紙の7章19-21節で「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」パウロは、自分の内なる心は善を望んでいても、自分の五体(肉、肉体)は罪のとりこにされている、というのです。しかしユダヤの律法学者の議論の中に現れたように、この欲望を神に帰するということはまさしく「責任転嫁」となります。

 そこで私たちが思い返さなければならないのは、キリストも、この苦悩、この苦難の極みに立ち、人間として苦しまれた、という事実です。マルコ福音書14章には主イエスがゲツセマネという所で祈られた場面が記されていますが、イエスはここで、弟子たちに、「わたしは死ぬばかりに悲しい。・・・目を覚ましていなさい。」と願いました。しかし弟子たちは眠ってしまった。「・・・誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」十字架で死ぬという自分の定めに対して主イエスはかくのごとく苦しまれた。「生きる」ということを断ち切られる、死を前にしての苦しみの前にもだえて祈り縋らずにはおれなかった。この一方で眠りの誘惑に陥る人々がいます。実に対照的な場面です。誘惑に打ち負かされている人々の姿がある。

 マタイ福音書4章では、イエスは悪魔からの誘惑を受けられますが、こう言われます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』・・・」誘惑と戦い、十字架の死の前にただ主を拝み、ただ主に仕える、との言葉を私たちに示しています。それはヤコブの手紙の最初の12節には「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と示される。「幸い」とはマカリオイ、あの山上の説教(マタイ5章)で主イエスがなされた「幸い」の宣言です。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」神は、試練を耐え忍ぶ人を幸いとなし、よき祝福を与えられます。

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