2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 12章22~32節

説教要旨   今日の聖書に、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」(22節)をイエス様が癒されることを巡って、群衆は皆「この人はダビデの子では」と驚いていいます。マタイ一章一節のところに、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」とあるように、ダビデの末裔にこのユダヤの民を救うお方が現れるという福音書全般に流れている一つのメッセージを群衆に語らせるものです。

 しかしイエスのありように反対するファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と非難しました。このような非難は、マタイ9章34節でも「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とあり、イエスご自身が既に10章25節で「ベルゼブルと言われるのなら」という言葉を口にしています。既にイエス様を度々誹謗中傷し、こういうキャンペーンをはってきたと思われます。ベルゼブルは悪霊の頭とあるが、もともとペリシテの異教の神バアル・ゼブルに由来し、それをもじってベルゼブル(蝿の王)と呼んで偶像の神とひっかけて忌み嫌った、蔑んだ呼び方をしたわけです。

 イエスは、彼らの考えを見抜いて、論理として悪霊が悪霊を追い出すということはありえない、ということを示しました。更に27節によれば、ファリサイ派の人たちの中にも悪霊追放をする者がいたのでしょうが、そうなればファリサイ派自身も悪霊の力を使っていることになり「自らを裁く」ことになるわけです。

 それに対して主イエスは「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」これは神の業なのだと示します。
神の霊、聖霊が主イエスを通してなせる喜ばしい神の国の業。憐れみと慰めに満ちた主イエスの業によって多くの人々が慰められ励まされているのです。

 更に「“霊”に対する冒涜・聖霊に言い逆らう」ことは赦されないことだと、イエス様は示しますが、創世記(1~2章)では、神様は人間をご自分のお姿の形におつくりになった。人間は様々なさまざまな姿をしていますが、それぞれ大事な神様の形なのです。そこに神様はルアッハ(神の息)を吹き込まれる。それは人を生かすために用いられた神の業です。イエス様はこの聖霊の力を病気の人を癒すために、用いられていたのです。それを悪霊の力と誹謗中傷、いやしめられましたが、それは聖霊の力です。神は人間をご覧になって、「よし」と言われたのです。その「人間」をいやしめることを私たちは互いに行ってはならない。聖霊を冒涜するとは、神の創造の業による被造物、聖霊の善き業をいやしめてはならないと言うことです。

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