2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 22章54~62節

説教要旨   (池内裕神学生)
 ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の邸宅へと連行されるイエス。その身を案じた愛弟子ペトロは、こっそりと主の後についていったが、邸宅の中庭で腰を下ろしているところで、人々にイエスの弟子であることを看破されてしまう。ペトロはすぐさまこれを否定し、「わたしはあの人を知らない」と嘘をつく。主が目前で捕らえられ、自らもまさに生命の危機という状況にあって、ペトロは結局、イエスが以前予告した通り、三度もイエスを否定してしまったのだった。わたしたち人間は、孤独や不安、恐怖の中にいるとき、いとも容易く迷い、過ちを犯してしまう。この弱さこそが、私たちの罪なのである。それはイエスにの愛弟子ペトロであっても例外ではなかった。

 ペトロが三度目の否定をし終わらないうちに、突然鶏が鳴き、イエスはペトロを見つめられた。その眼差しに見つめられ、イエスの予告を思い出したペトロは、外に走り去り、激しく泣いた。イエスはどのような思いで、自分を否定する愛弟子を見つめたのだろうか。イエスはペトロの離反を予告したが、彼を責める事はしなかった。彼に預ける天の国の鍵を取り上げようとはしなかった。ここに、この物語の本質がある。イエスはペトロの離反を知っていてなお、彼を愛した。彼の離反をイエスは既に受け入れ、赦している。そして彼の罪だけではなく、私たち全ての罪を背負って、これから十字架へと上っていく。イエスは、そのことをペトロに伝えたかったのではないだろうか。たとえ自分を否定したとしても、ペトロは彼の愛弟子であり続けた。そして、彼が自分を裏切ったという重荷に押し潰されてしまわないように、離反を口にしても、もう一度悔い改めて、自分の教えに立ち返れるように。そのような願いを込めて、ペトロに予告をしたのではないだろうか。そう考えれば、ペトロの涙の本当の意味が浮かび上がってくる。ペトロは罪悪感、後悔以上に、イエスの愛と赦しによって、打ちのめされたのだ。

 では、赦されたわたしたちは、何をなすべきだろうか。ペトロ行伝によれば、ペトロはイエスが昇天された後、ローマでの伝道の最中に迫害に遭い、ローマを逃げ出そうとしたその時、イエスに出会ったという。ペトロはローマへと戻り、信徒たちと運命を共にしたと伝えられている。わたしたちはペトロほど強くはないので、何度も迷い、過ちを犯すだろう。しかし、重要なのは、そのたびに私たちがイエスの赦しを思い起こし、主の教えに立ち返ることなのだ。

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