2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙 1章18~25節

説教要旨   (小岩輝神学生)
 本日は「十字架の言葉」と「人間の知恵」の対立がテーマとなっている。「十字架の言葉」、すなわちイエス様の十字架の出来事を福音として宣教することは、「滅んでいく者」と「救われる者」とで意味合いが異なっている。この世の知恵に属する人たちは、神様がなさった十字架でのイエス様の死と復活の出来事により愚かなものとなった。世が有する知恵は愚かなものに過ぎない故に、世はその知恵をもって神様を知ることはできなかった。神様は、世が愚かと考える十字架でのイエス様の死と復活の出来事によって、キリストを信じる人たちを救おうとなさった。神様の愚かさ、弱さは、十字架そのものであって、人よりも賢く強い。ここに逆説的な大きな驚きがある。だからこそ、神様の力は私たちの常識を遥かに越えて力強い。

 今から1年と4ヶ月前、私は皆さんに対して、他の教会での学びの機会を求め願い出た。この発言は洛陽教会に集う方々の気持ちを多いに落胆させ、悲しませた。その一方で、私は、当時、牧会者への道を見失いつつあり心が大きく揺れていた。最終的に、皆さんは慈悲と寛容の心で私のわがままを受け入れ、祈ってくださった。神様はその祈りをお聴き届け、私を捉え、牧会者の道へと導いて下さった。この展開には驚きを禁じ得ない。神様の御業と皆さんのお祈りとお支えに心の底から感謝する。

 他の教会における学びの結果、若い世代は関係性を必要とし、教会の空気(神の息)が彼らを捉えていること、子どもにとっては親から離れてのびのびとした時間が必要とされていることを知ることができたことは、貴重な体験であった。

 宗教を信じない人たちにとって、神様の御業である十字架につけられたキリストは愚かに聞こえるかもしれない。しかし、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。私たちはその神様の愚かさに生きることを通じて、神様の力を絶えず受け、宣教の御業に励みたいと思う。

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