2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙二 8章1~15節

説教要旨   マケドニア州の諸教会の様子をパウロがコリントの人々に伝えるところによれば、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」と示しています。「満ち満ちた喜びと極度の貧しさ」という言葉には、9節の「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」という内容がつながっています。

 分かりやすく申しますと、キリストは神の子として申し分ない父なる神のお力そのものであられたのですが、私たち人間のために人間に尽くして歩まれ、最後には十字架の贖いの死を通して完全に私たち人間に仕える者となったのです。私たちの罪の贖いのために主が十字架で死なれ、その救いを達成するために復活されたことはキリストを信じる者にとって明らかなことですけれども、これ全てを含め持って、キリストの愛のわざとは、キリストの貧しさと表現されている訳です。言いかえれば、貧しさとはおのれが他者に仕え尽すことによって他者を豊かにする。貧しさとは、他者に対する豊かな愛情です。他者に豊かに愛情を与えることは自分が貧しくなることになります。

 物理的なことで一番分かりやすいのは、エネルギーを発揮したら、当然燃料がなくなる。プアーになるわけです。他者を愛することは自分から愛のエネルギーが出ていって、貧しくなることなのです。極度の貧しさとは愛があふれ出てプアーになった。貧しくなったことの喜びです。こういうようにマケドニア州の諸教会の愛の業は、自分たちが愛のエネルギーを発揮しつくした、と言います。

 パウロはこういったかたちで、8節「他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして」このマケドニアの諸教会の人々のあふれ出る貧しさ、すなわち愛のこころについて語ってきた。これは具体的には、当時ユダヤ人たちに囲まれ苦闘・苦境のさなかにあったエルサレム教会の人々(聖なる者たち)を助けるために惜しまず愛をささげた。パウロにとっては異邦人伝道に赴くとき袂を分かった因縁がありますが、パウロも熱心に援助に努めています(ガラテヤ2:10、第一コリント16:1)。

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