2011年3月20日 の説教



 聖書

 ローマの信徒への手紙 9章19~28節

説教要旨   今日の聖書ローマ9章19節はこういう言葉で始まっている。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』」と。この「ではなぜ」という書き出しは、前段の内容について、特に18節の「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」という内容を受けています。人は「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ」に不公平を感じ、憐れむどころか裁きを持ってなおわれわれを責め続けられているというのでしょう。

 神様、あなたは「御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ」と言うけれども、私に対する「憐れみのしるし」「恵みのしるし」はどこにあるのですか。そういう類の言い方を神様に対してやっていく。

 しかしこれは人間には分かられてこない「恵み」と「憐れみ」です。それを受け取る術は、聖書の語ることに忠実に聴く、つまり神に聞き従う、心のありようである、と言えましょう。

 20節以降に聖書の言葉が続きます。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」ここで、出てくる焼き物師と作られた器のたとえは預言書によく出てくるものです。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか/「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか/「彼には分別がない」と(イザヤ書29:16)。災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと(イザヤ書45:9)。

 焼き物師が粘土から器を作ることは、創世記にある神の世界創造、人間創造を想起させます。神は人を「神の形に似せて作られた」もうその時点で、必要な恵みの形を全ての人間に与えておられるのです。つまり神はわたしたちを憐れみの器として、作られた。

 24節「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」自己中心、利益中心、損得中心の価値観の中に生きるのではなく、自分が受けた神の恵み憐れみを神の言葉によって気づかされ他者と分かち合っていくありようが示されています。

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