2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 9章9~13節

説教要旨   新約聖書の中で「徴税人」は、イエス様とともにいる場面で、「徴税人や罪人」とひとくくりにしていわれることがよくあります。それは世間から忌み嫌われ汚れている人々としての状況があります。徴税人の場合、ローマ直轄地の人頭税をローマ側とやりとりする職責上の理由から、異邦人と頻繁に接触があるため、これはユダヤからすると、汚れた異邦人との交際はユダヤ律法のきよめの規定に反するとされるのでしょう。更に、例えばルカ19章8節の徴税人ザアカイの言葉には、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」とあるように、徴税人は通常の徴税以上にあくどい取り立てを行っていたことが背景として伺えるものであり、それは世間から忌み嫌われる要因の一つだったことでしょう。

 呼びかけられ、すぐにイエスの弟子になったマタイは、そういう不正やあくどい仕業が渦巻く世界に生きていたのだと考えられる。そういう世界に生きて、仕事をしてきたけれども、イエスの呼びかけにすぐ応じたのは、彼自身の生きている状況の罪深さ渦巻く世界の中で彼の生業としていたもののあまりのあくどさから救われたいと心底願っていた、と言えるのではないか。

 さて、そのようなマタイ、徴税人や罪人たちとイエスが食事を共にしようとすると、ファリサイ派の人たちが「なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難をしてくる。そこでイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」という譬えをします。医者は通常患者と一対一で診察をするものです。主イエスは今や救いについて徴税人や罪人たちと共に語らうべく、大切な時を共にされようとしている。それは彼らの救いに関わる大事な時なのであります。そこにファリサイ派の人たちが土足で踏み込んでこようとする。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア書6章6節)とはどういう意味か、行って学びなさい、とイエスは彼らに更に問いかける。神様が求める憐れみの心に私ども人間は招かれている。イエス様との会話に招かれている。聖書のみ言葉と対話し、祈り、またあるときには喜び、また背筋を伸ばし、感謝し、また思いを定める。そういう意味では私たちひとりひとりが徴税人であり、罪人であり、そしてそこに徹底的に関わってくださる神様が話し相手となってくださるのであります。そういう信仰生活を辿っていくここに何よりもまして恵みがあろう、と思います。

礼拝の説教一覧へ戻る