2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 12章43~50節

説教要旨   ある人にもともと取り憑いていた悪霊がその人から追い出され、再び戻ると「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」そこで悪霊はこれ幸いと、七つの仲間を引っ張ってくる、という話をイエス様はなさいました。確かにいったんこの悪霊は追い出された。この追い出したとき、掃除し、きれいに整えていたけれども、「空き家」だったということです。これを少々神学的な読みとして考えるならば、悪霊の替わりに住むべき者、そこに住まわせる者を見いだせなかった、ということになるのです。
もともと悪霊の住処であったのを追い出したので二度と前のような轍をふまない為にも綺麗に掃除整頓されたのに心に迎えるべきお方への信仰に生き得なかった。創世記で楽園にいたアダムには神に従うべく神の戒めが立てられていたのに良いものを自分の中に確立できず欲望の餌食になってしまう。

 その戒めが人の中に実質化していなかった。人は誰でも罪に対して弱く、それに対抗する実質化したものをもっていないのです。それで「空き家」が悪の誘惑に陥ることの方に傾いてしまう。

 マタイ25章の「タラントン」のたとえの中で「一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた(18節)」とは、この人が「タラントンを地中深く埋めておいた」神学的な脈絡で言うと、つまり「空き家」です。そこに良きものを入れる手だてに生きることができない。七つの悪霊の力にいとも簡単に屈服してしまう。

 イエス様が「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(12章50節)」として示されたのは弟子たちであったが、厳密に言うと、弟子たちはイエスの神の御こころを行う人々に「なっていった」ということは言えると思う。ただ、ここで言われた時には、彼らはまだその道のりの途上であった欠け多き弟子たちでした。ゆくゆく主イエスに対して、その十字架の前から離れ去ってしまう弟子たちに対しても、イエスは招かれ呼ばれているのです。そしてそれは当然、時代離れた私たちにもその言葉は生きて語られ招かれているのです。

 ならばこそ私たちもまた欠け多い者ではありながらも、御心を行う人としての招きに応え、神への信頼に生きるべく、自らの信仰を深く顧み、その熱い思いに立つべく神のみ心を求める生活を人生を歩もうではないか、と思います。イエスの家族と言われるために。

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