2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙 15章35~52節

説教要旨   第一コリント15章35節には「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く者に対するパウロの応えがあります。死者の復活ということは、キリスト教会とりわけ古代の教会にとっては宣教の最重要課題です。ペトロもパウロも説教において、ユダヤ人や異邦人を説得するのに、復活そのものが受け入れがたい現実主義者を相手にしていますが、35節の質問にパウロは「愚かな人だ」と返しています。私たちが復活の体について、こんな体であったらよいとか、それはどんなに素晴らしいことか早く見せてくれ教えてくれということは杞憂に等しい、と言うことです。私たちは様々なこの世での姿があるが、しかし私たちが死ぬときには、それは一粒の麦の種に過ぎず、それは死ななければ実を結ばない、とパウロは語るのであります。

 私たちの生きとし生けるこの世界では私たちは多様性を認識する。38節によれば、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる。」パウロの生きているこの古代世界の一つの認識のありようを巡って、パウロは一つの譬えを示す。それは、40節で「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。」という区別が与えられている。このときにパウロが天上の体のと地上の体について明らかに注目しているのは「輝き」という言葉です。地上の体の輝きについてイスラエルの民が思い浮かぶのは、知恵と権力において栄華を極めたソロモン王のような豪奢な装いであります。しかしイエス様はマタイ6章29節にあるように「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と示した。イエス様のまなこには、王よりも、野の花の装いの方が美しいと感ぜられていた。この輝きの理解により42節以降に「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」

 ルカ福音書16章で貧しきラザロが天の国において祝宴に招かれるその一方で金持ちが陰府でさいなまれる譬えの中で、31節でイエス様は『もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があってもその言うことを聞き入れはしないだろう。』との言葉を示し、復活とは、み言葉を信じ行う人々は、天上の輝きの真実を地上で確信することであり、そのことが神様に深い顧みをいただくことであると示すのです。

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