2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 18章21~35節

説教要旨   イスラエルでは七という数字が好まれます。それは神学的には完全数と呼ばれています。そしてこの七にちなむ話は聖書にも多いけれども、イエス様はそこでどのようなあり方を示したでしょうか。 

 例えば、マタイ22章23節以下には、七人の兄弟に次々に嫁いでは夫に死なれた女性のことをサドカイ派が持ち出し、「復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。 (28節)」とイエス様に問いかけます。復活を否定するサドカイ派の罠のように思えますが、イエス様は毅然として、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(30節)」と答えたのです。復活の時には人間が人間の何であるとか言う、この世的な一切はない。この世の縛り、この世の抑圧されたいっさいの事柄から解き放たれるのだ。この女性も、一人の人間としての尊厳をもった存在として、復活の時には天使のようになり、神に受け入れられる、とおっしゃったわけです。ここでイエス様は7という数や価値観から、福音の関係をノーカウント、という平面におろしている。

 本日の「七の七十倍までも」の後に続く「赦しなさい」の言葉は、神がノーカウントの赦しの愛をもって一人一人に向かい合って下さることを示します。ここに示されますのは、七という圧倒的な存在感を示す罪の数々の責めも、イエス様にあっては、全く帳消しにしてしまうような赦しの力、というべきものを私たちはここに考えさせられたいのであります。

 今日の18章23節以降のたとえは、王(神をこれに譬える)に借金している家来が、憐れみによって借金を帳消しにされたにも関わらず、自分に借金している仲間の首を絞めて、牢屋にぶちこむ話ですが、つまりそれは「赦されているのに、赦さない人」ということです。ここに人間の深い罪の闇の姿がある。主イエスはこの闇を全て払う存在なのです。自らを十字架の犠牲にしてまでも全て赦し尽くす。そこにノーカウントにしていく言葉の力というものがあるのです。

 そもそも21節で、ペトロはイエスに「何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と言っています。裏返して言うと、ペトロとしてはそれくらいが限度だと言いたい。けれどもイエス様がおっしゃるのは、ノーカウント。数えるな。私たち人間が数えるな。ゆるしというのは、ノーカウントなんだと。神の愛をあらわす、あなたがたはノーカウントでいなさい。あなたがたが裁く者になってはいけない。神の愛を豊かにあらわす、このイエス様のこの言葉に従い、隣人を愛し愛される者として導かれたいと思います。

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