2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 19章13~30節

説教要旨   今日の聖書箇所には、天の国があらわされています。19章14節。イエスは「こどもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

 イエスに手を置いて祈っていただこうと、せっかく人々がこどもたちを連れて来たのに弟子たちはこの人々を叱ったとあるのです。弟子たちにしてみれば、自分たちはイエスの弟子として直接導かれた者だという、特権意識があろうかと思われます。27節でペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言うように、家も捨て、財産も捨て、全てを捨てて主イエスに従った、私たちこそ、主イエスの弟子である、との特権意識であります。

 この13節で弟子たちが「叱りつけた」という言葉のもとのギリシア語には心の内に相手を値踏みする気持ちが含まれている、ということが言われます。それを鑑みて読み込むと、弟子たちはこの人々を見下してはねのけようとしたわけです。そこにはイエス様にはお前たちでは通常は会えないんだぞ、くらいの気持ちが働いています。しかしイエスは弟子たちに「天の国はこのような者たちのものである」と示した。マルコ福音書の並行箇所10章15節には「こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と示され、神の国を受け入れるには、こどものように何の特権意識もなく飾り立てもなく、素直な喜びを持って無邪気に神の国を求める姿にこそ、主イエスはこれをたとえられたのではないか、と考えさせられます。

 もう一つの天の国を言い表す後半部には23-24節に「金持ちが天の国に入るのは難しい・・・らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とありますが、そこにあるポイントはこどもにたとえられる素直さ単純明快さに比して我々人間(大人)は多くのものを抱えたまま天の国を求めている。地位、名誉、財産、更には特権意識等々でしょう。ここで併せ読むのはルカ16章13節で「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とある言葉です。神と富とに兼ね仕えるあり方から、神に中心軸を置くあり方へと私たちを方向づける聖書の言葉には、「天に宝を積む」べく生き方の指針、そして与えられたこれらの御言葉との私たちの葛藤はあるかも知れないけれど、常に私たちの生き方ありようが御言葉によって「燃えるように(ルカ24:32)」問われ続ける幸いを思わせるものです。

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