2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 20章1~16節

説教要旨   16節におっしゃった「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とはイエス様の世界観を端的に表す言葉ですが、私たち人間が、この社会の中で実践しようとすると何かと困難であったり、そこで私たち自身の弱い欠け多い人間性と向かい合わざるを得ないものです。

 ここではぶどう園の管理者である、ある家の主人(恐らく神様のことをたとえているのでしょうけれども)が労働者たちを雇う、という形で物語が推移しております。そして、その雇用の仕方を時間労働に対しては不平等な賃金の払い方だと指摘された際、主人は『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』と答え問いかけられます。

 ここには「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という神様の強い意志が現れています。神のみ手が経済困窮者に働く。それは世知辛い、温かさを失った現代にこそ心に訴える、「後の者」に対する強い神の愛情です。もし「先にいる者」として私たちが神様のこころを感じるとき、私たちはその神様の心から自分は遠い、と感じることもあるわけでしょう。だがそこでもう一度この言葉を読むと、ここには「あなたと同じように」という言葉があるのです。神は確かに最後の者を愛し給う。けれども、そこには、あなたと同じように愛するという言葉がある。神はあなたを愛して、この最後の者をも愛する。私たちがここをまず受けとめて、神様は私を愛してくださっていたのだ、というところに立つことを思い、同時に「あなたも同じように、この最後の者を愛しなさい」という神の心を受け入れていきたいのです。

 ルカ福音書の譬えの10章37節で、襲われた旅人を介抱してくれたサマリア人を指し示したイエスさまが言われた言葉「あなたも行って同じようにしなさい」は隣人を愛せよ、の言葉です。神様が私たちにしてくださる、一デナリオンの約束は、この隣人を愛せよ、の言葉と同じことなのです。

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