2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 25章1~13節

説教要旨   婚礼の花婿、花嫁の行進する夜道を照らすためのおとめたちが、ここにたとえられています。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった(2-3節)。

 ところで、5節には「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。よく見ると、愚かなおとめはともかくも、賢いおとめたちさえ、この段は寝ている。それは「常に目を覚ませ(13節)」との教訓に沿うありようではないが・・・。

 こういうときに、ゲツセマネの園での出来事を思い起こします。マタイ福音書ではこのあとの26章の出来事です。イエスはここで弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。(26章38節)」と言われ祈られたが、彼らは眠ってしまった。「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい・・・。(同40-41節)」これはイエスの十字架の死の前の出来事ですが、あのペトロでさえ眠ってしまった、というのです。

 しかしここには「問いかけ」がある。もちろん私たちはキリストの信仰によって完璧な聖人となるわけではないし、むしろ罪人としての自らをますます思う。けれども、賢いおとめは起こされたときには灯火と油の準備を怠らないわけです。ここにイエスは罪人の罪深さを抱えつつも目覚めている者への心へと立ち帰る人々のありようを示しています。ただし主イエスはゲツセマネで眠りこけた弟子たちを叱りとばすのではなく悲しみつつもご自身が十字架にかかる時が近づいた(同45節)とし、その時は誰も知る由もない(25章13節)との今日の言葉につながれています。

 かつて語源的な解釈からヨハネス・クリュソストモスはおとめたちが用意するこの油は憐みを表していると記しましたが、この油は賢いおとめたちの目覚めの心に注がれている主イエスの憐れみのしるしであります。

 宗教改革者ルターの言葉に「神につくられた者とはどういう者かということを知りたいと思うならばその神につくられた者が今どんな存在であるかということよりも、その存在が悲しみつつ新しくなることを待ち続けている者だということに気づかなければならない」とありますが、弟子たちのようにたとえ目覚め疎く、その罪深さに悲しみつつある存在も、十字架と復活の前に新しくされていく希望を私たちも分かち持ちたいと願います。

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