2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 10章2~12節

説教要旨   ファリサイ派の人々が主イエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているか」と尋ねた。イエスを試そうとした(10章2節)。「離婚・離縁」を巡っての事柄はまことに厳しい。それはイエスの言葉によれば、人間の現実によって、神が結び合わせてくださったものを人が離す業となる(10章9節)からです。そうしたことが共同体の中でなるべく起こらないように、お互いを大事に、神が慈しまれているその存在を互いに尊重し合うそういう人間に成長することこそ、「離婚・離縁」という事態をおこさないために大事なことだと思うわけです。

 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とイエスが示された言葉によって結婚という関係の中に祝福され私たちは導かれるのだけれども、一方ファリサイ派が提起したように、一つの避け得ない人間的現実としての離婚はある。もちろんそのことによってキリスト信仰から離れたり、人格が疑われたりするわけではない。むしろそういうひとの辛い経験は慰められるべきものです。

 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」とファリサイ派が言うのは、申命記の24章1節にありますが、それはこの時代、いわゆる男性中心の価値観で動いているユダヤ社会にあっては、女性の人権は無視され、男性の側にのみ、離縁の権利があった事柄です。妻に何か恥ずべきことを見いだせばそれを理由とできた。しかしこれに対して5節に、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いた」とイエス様はいうのです。ここに現れる心の頑なさはどのような類のものだったのでしょうか。

 エジプトの奴隷状態だったイスラエルの民をモーセは導きだし引っ張って荒れ野を40年の間、カナンに向かうまでの間放浪しました。しかしモーセがシナイ契約を神との間に取り交わしていたとき、金の仔牛をつくって別な神を拝んだ。モーセが戻ってみるとその像の前で飲めや歌えの乱痴気騒ぎを起こしている。つまりこの人々には神を求め待つ聖性がない。更に自分の願望や欲望を(偶) 像に投影する。それは自分の心の内なるところに偶像を作るのです。そしてこのことは結婚にも当てはまる。自分の理想を相手に投影する。結婚生活の現実で自分の思う通りにならない相手だと分かったとき、離縁という局面に陥る。

 主イエスの父ヨセフはかつて、婚約者マリアが聖霊によって身ごもった時、ひそかに離縁を考えた。この時二人は悲しみと絶望の際にあったことでしょう。しかし天使が「恐れるな、相手を受容せよ」と励ました(マタイ1章)。この時、結婚という二人の関係に聖なる愛が介在したのです。そして愛(神)という存在者が二人の結婚を支えた。主イエスはこのこどもとして生まれた。

 聖なる愛(神)の姿を見失った私たちのこの時代ほど、相手を尊び愛にまねぶ人たちが現れることを神が待ち望んでいる時代はありません。

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