2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 1章39~56節

説教要旨   マニフィカートはルカ1:46-55のマリアの祈り(神への賛歌)のことですが、その語源が「大きくする」を表しているとおり、神の前に畏れ多い存在としての人間の小ささを示すものです。宗教改革者マルティン・ルターの解釈ではエステルの一つの話が引き合いに出される。昔、エステルという女王がいたが立派な女王で、その頭上にはまばゆいばかりの黄金に燦然と輝く冠をいただいていた。ところが、エステルの目には、実にその冠はぼろに見えるのだったと。これは旧約聖書外典「エステル記補遺」3の11に出てくるエピソードだが、そこにあらわれることは、エステルには王妃として、何一つ粗末なものが与えられていた訳ではないし、黄金に満足できない高慢な女性でもない。むしろその逆に、最もユダヤの人々の行く末を慮った、高貴な魂を抱えたひととなりであった。では彼女は何故、冠をぼろのように見たか。それは彼女が神の前にぬかずく存在であったからだ、としている。ルターが注目することは、マリアやエステルという人たちの魂がどのように神様と向かい合っているのか、ということです。神の子を今から受けとめようとするマリアはどのように祈り、賛美を神様にささげたのでしょうか。

 51-53節に表れている言葉は、権力ふるう者が引き下ろされ、身分低き者、貧しき者が高められる、という。いつの世でも権力ある者、財力ある者が世界を支配し、どんでんがえしは起こらず現実は据え置かれて行く。しかしマリアが神に見ているものは、この世の現実を覆す力あるお方は神しかない、という信頼です。

 マニフィカートの中で、繰り返される言葉に憐れみという言葉があります。50節、54節、あるいは48-49節での言葉の背後にこの神の憐みが見えています。42節、45節でもエリサベトに「…なんと幸いでしょう」と喜ばれています。しかし後々、主イエスに母という立場を否定され、またそのわが子を十字架の死に失わなければならなかったマリアの人生を見るとき、どこに憐みがあったのか、との問いがうまれます。

 主イエスは山上の説教マタイ5章4節で「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と示しました。そこでは「誰に」慰められるのか、という神学的な問いがあり、当然「神の慰めがある」との答えがあります。悲しむ人々の幸いは神に慰められること、神様に多く関わられることが幸いなのだというのです。クリスマスはマリアに神様が介在された出来事です。イエスを失う時にあっても、マリアには終始、神がともにおられる。それはマタイの福音書では「インマヌエル」という言葉です。

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