2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネの黙示録 22章1~5節

説教要旨   今日の聖書箇所との関連で思い起こされる聖書の一つに、ルカ10章17節~20節があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と喜ぶ七十二人に、イエスは言われる、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」天に名が記されるとはどんな喜びなのか。名が記されることについて、人の世の人間的事柄の中(例えば、競争、順位とか、地位、名誉、功績とか)で、ともすれば、キリスト教世界でも、功徳の積み重ねが天に名の記されるための条件というように誤解されるかも知れない。主イエスが言われた天に記された名のことは、ただ神のみ栄えのみがあらわされ、ただ神の憐れみのみが為せる業によるのであり、(悪霊追放という)功徳の人間としての積み上げによるものではないことを確認したい。従って「あなたがたの名が天に書き記されていること」への喜びは、自己満足的な喜びではなく、ただあなたに対する神の憐れみを信じるが故の喜びである。

 今日の黙示録22章において、エデンの園のような天地の回復が告げられるが、この光景によって、あらゆる病の追放(2節)、呪われることなき世界(3節)の中に諸国民が慈しみに生きる世界が示されている。神を礼拝する神の僕たちの額には、神の名が記されている。それは既に黙示録21章4節に「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」云々とあるように、慈しみのしるしである。そこには神をたたえることのみが残る。 

 この一年を神様のみ手のうちに置かれた。ただただ感謝であった、ということです。それを喜ぶ、ということでよいのではないか。迎える年も、どうぞわれらを神様の手の内に於いてくださいと祈り、み名をたたえ、喜びをもって、この年の瀬を迎えてまいりたい。

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