2011年3月20日 の説教



 聖書

テサロニケの信徒への手紙12章1~8節

説教要旨   パウロはかつて、フィリピやテサロニケで伝道の激しい苦闘を覚えつつも大胆に宣教した。その様子は具体的には使徒言行録16~17章に示されています。そして、それは今日の(テサロニケの信徒への)2章1節で、「無駄ではありませんでした」と告白している。「無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。」その勇気の源は,自分たちの中にではなく,神の助けにあったと証言する。

 伝道が、孤独な戦いとなるときに、人はこれは無駄ではないのか、とよく言います。しかしパウロはこう言う。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、・・・神に喜んでいただくためです。(3-4節)」人に喜ばれることを期待するのではなく、神に認められ、神に喜んでいただくために」と示し、相手にへつらったり(5節) 人間の誉れを求め(6節)はしない。そこに真実の喜びが生まれるのだろう。

 祈りについても同じような事が言える。公同の祈りがあるとともに、マタイ6章6節でイエス様は一人一人が隠れた場所で神様との祈りを持ちなさい、と示されている。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」、「隠れたところにおられるあなたの父に祈る」。そうすると、「隠れたことを見ておられるあなたの父が」「報いてくださる」という。主イエスは、あなたがたは、そういうふうに、隠された関係を神様との間にもちなさい」というのです。それは、やはり人間に喜ばれるような方向ではなく、神に喜んでいただくための祈りの関係を他者を交えず、神様と自分との間にもっていく、ということです。

 こうして神様との関係に生きるときに、人間は自由であり、他の何ものの抑圧も受けず解き放たれていることを思います。

 2014年。一人一人が神様との関係に立ち続けて、神の喜びを求め祈る場を確たるものにしていくことを願ってまいりたいと思います。

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