2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 1章9~10節

説教要旨   マルコによる福音書では、バプテスマのヨハネが主の道備えをする者として荒れ野に登場し、主イエスに洗礼を施すというところから始まっています。マタイやルカの福音書も最初に主イエスの降誕の出来事があるが、それから先一定の空白期間があり、成人したイエスが洗礼を受けるためバプテスマのヨハネのもとを訪ねたところから本格的なことが始まる態勢をとっている。ヨハネ福音書でもその構造はほぼ定まっています。こういうことから、福音書ではイエスがヨハネから受洗したことをもって、主イエス様の公生涯のはじまりと見なしています。イエスの洗礼という出来事は、主イエスのご生涯を語るに絶対に外せない、最初のスタートだということなのでしょう。ではなぜそれほどまでに、この洗礼と言うことを聖書では重視したのでしょうか。

 逆に言うと、バプテスマのヨハネはイエスが彼から洗礼を受けるという事にはとてもナーバスです(例えばマタイ3:14「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」)。洗礼は、このヨハネが語っているように、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(マルコ1.4)」であります。「悔い改め」というからには自己肯定的な洗礼というのは世の中にはありません。必ずそこで人は何かの責めを負うことになり、聖書ではそれは罪のことです。しかし、神の前に深く頭を垂れるとともに、神に赦され、救われたという、その溢れる恵みに満たされ喜びながら洗礼を受ける、ということが大切にされます。

 ヨハネが主イエスへの授洗を躊躇した折(先のマタイ3:14)、主イエスの「今は止めないでほしい」という言葉に注目するならば、神を信じる者はそのままで洗礼を受けるに価する。イエスは主である、わたしが信じるお方は愛そのものであると告白する。使徒言行録2章41節には、ペトロの説教の言葉のあとに、人々が説教を聞いたあとに必要なことは何かと問うと、ペトロはそれは悔い改めと赦しの洗礼だと示しています。エチオピアの宦官は聖書をフィリポに説き起こされてすぐ水のたまり場のようなところで洗礼を受けました。

 悔い改めの心を伴う洗礼は、聖書から引き起こされ、神の赦しの愛はいつなんどきともなく、人々の心に注がれています。神様と人をつなぐ深い絆が聖霊によって結ばれ、新しい命へと誰もが招かれていることが洗礼の意味です。

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