2011年3月20日 の説教



 聖書

 使徒言行録 9章1~9節

説教要旨   本日使徒言行録9章に登場するサウロ(後のパウロ)は、初代キリスト教団のステファノを殺害することに賛同していた若者で、このようにキリスト者を次々と抹殺していく、というユダヤ教の方針に則って、ダマスコに至る道を迫害の思いを募らせながら、急いでいました。「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」という文言からこの様子が分かります。そしてそのサウロに対して、神の光が当てられます。

 「・・・突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。・・・『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』(3節)。これは、サウロ(パウロ)の回心といわれますけれども、回心ということは、ここだけに使われるのではなく、例えば手前の8章のところでエチオピアの宦官がフィリポに説き起こされて洗礼を受ける事柄にも使われます。プロテスタント教会では、回心とは洗礼と同じような言葉として考えられ、そこにあるモチーフとしては、悔い改めや信仰という事柄と大変深く結びついております。

 回心のもう一つの意味は、向きを変えるという意味で、もともとのギリシア語エピストゥレフォーは方向転換してもとある位置に戻ってくるという意味です。迫害は人間としてはあってはならない極悪な状態です。その状態から、神様が向きを変えさせて、本来神のもとにある人間に方向転換させる。ダマスコの聖人イオアンは、「回心とは人間性に反するものから人間性に固有なものへ、デーモンのとりこから神へと立ち返ることです。・・・」と語ったと言われています。こうして迫害者サウロは、地面に倒れ(まるでいったん死んだことのしるし)、そして次に開けたまなこが新しいものを見るようになる。また9節の三日間の断食は悔い改めのしるしであります。そこで彼は生まれ変わり洗礼を受けていく。

 迫害とは主義主張や利害の違う他者を弾圧し抹殺する行いですが、一人一人の人間は神様から尊い命として存在を与えられています。第一コリント13章2節で、パウロ自身が「もし私が愛をもっていないなら、私は存在しない。(NEB訳)」と語ったように、神が愛している一人一人の人間という尊い命ある存在をもって私たちも互いに愛し合わなければなりません。回心の時サウロに呼びかけたイエスの声は、この愛においてどのような存在も軽んじられてはならないと、神が私たちに求め続けている、呼びかける声なのです。

礼拝の説教一覧へ戻る