2011年3月20日 の説教



 聖書

 ペトロの手紙一 1章3~12節

説教要旨   今日の聖書箇所を読むとき、ルカによる福音書24章13節以下にある、エマオの道をゆくイエスの弟子たちのことを黙想しました。復活した主イエスと弟子たちが出会ったのだが、16節にあるとおり、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかったのです。こういう状況を思うときに、今日の第一ペトロ1章8-9節にありますような、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」とあるところへの脈略を思います。キリストのことを論じ合っているけれども、その姿は見えていない。このエマオに向かう弟子たちの状況はペトロが言い示す「あなたがた」の状況と同じであり、それはひいては教会の現実の中で信仰生活を送っているわたしたちの様相でもあることを思います。

 エマオでのやりとりもう少し続けると、30節で「・・・イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」とあります。一瞬見えたイエスの姿を真ん中において、その前と後でも、二人にとって相変わらず神の姿は見えないけれども、その後のところで、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ってからの弟子たちの信仰の思いは明らかに変えられている。神様が一緒にいて、聖書を説き明かしてくださった。そのとき自分たちの心は熱くなった。聖書の言葉が直に神様の口から示されていくときに、たとえ影絵のようにしか神様は見えなくとも、神の言葉が自らに伴っている思いに溢れ、喜びと感謝に満たされて信仰の実りを豊かに受け取っています。

 やはり復活の出来事でヨハネによる福音書20章24節以下には、主イエスの復活を見なければ信じない弟子トマスとイエスのやりとりがあります。29節でイエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と示されました。この時恐らく一方でこの事柄を見守っていたペトロはその後キリスト教会につながった「見ないのに信じる」信仰をもつ多くの異邦人信徒たちにイエスの幸いを語り、励まし支えたのであります。

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