2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 1章40~45節

説教要旨   今日のマルコ1章40-45節の出来事の中で、イエスは癒された人に、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。・・・」と言いました。しかしこの人は、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。そのため、イエスはもはや公然と町に入ることができなくなった。これは言わば神のみ業(宣教)の中断を余儀なくされた訳なのであります。ここに癒しとそれにまつわる世事との緊張関係がある。イエスはこれを告げたとき「立ち去らせ・・・、厳しく注意し」とあったり、そもそも41節の、主イエスの「深く憐れんで」という翻訳自体、諸説あるところでもともと、人間の臓器、内臓を意味する言葉から来ていますので、あらゆる感情を意味しうる言葉、そこから「怒る」とも訳しうる言葉です。40節にある「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」との言葉自体が神の子に対する不遜不敵な物の言い様だということになりましょう。そもそも、この聖書の箇所全体そのものが、イエスの言いつけに従わなかったこの人のその後の行動を予感させたものであると言えるのかも知れません。

 しかしイエスは「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と示し、当時病を患う者が共同体から排除されていたのだけれども、その人間関係を回復するよう思い計らったのです。レビ記14章にもそうした定めがあり、きよめられた人はいわゆる社会復帰をするために、モーセの律法に従って祭司に体を見せる。

 この人は、自分の身にあらわれたことが、イエスの関わりだと「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」。善意であったのか、あるいはそのことによって自分自身の名前も知れるという自己顕示欲の現れであったのか。いわゆる宣伝効果絶大ということで世の中では実利的なこととしてむしろ歓迎されることであるのかもしれない。しかし人の世の中が求めないことは、神様によって求められることがある。また逆に世が求めることは、神様に求められていないこともあるという事柄の中で考えさせられる時、イエスの「憐れみ、癒し」は、人間ひとりひとりを愛して進んでいく。そうしたときに、必ずしも神の指示に従わなかったこの人をも、主イエスご自身なりのやり方で愛した、といえるのではないか。町の外まで癒し、救いを求める人々はあとをたたない。飼うもののいない羊の群れのように、ここに主イエスは、その憐れみを示し続けて今日も明日も進んでいく。私たちはこのイエス様の姿を見据えて今日から明日を歩み行きたい。

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