2011年3月20日 の説教



 聖書


 マルコによる福音書 3章31~35節
 ヨハネによる福音書 19章23~27節
説教要旨   (金田義国牧師)
 皆さんもカトリック教会を訪問してマリア像をご覧になったことがあるでしょう。カトリック教会ではマリアを特別な存在として崇めています。歴史書、映画、雑誌でもマリアは世界的に有名で尊敬の的となっています。ではカトリックの信者はなぜ処女マリアを崇拝し、礼拝の対象の一つにしているのでしょうか。

 四世紀のヨーロッパでは既にマリアを『神の母』と呼ぶようになりました。もし、キリストが神でありキリストがマリアから産まれたのなら、マリアは『神の母』というのです。アウグスティヌスは、キリストに罪がないなら、その母マリアにも罪はない、即ち原罪に染まっていないと主張しました。中世のヨーロッパはこの問題で議論が絶えることなく、マリアを礼拝しないプロテスタントと大きな溝ができました。

 そこでマリアについて聖書から学んでみたいと思います。マルコ福音書でイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(33節、35節)と応え、マリアを一人の「人間」として捉えています。一方ヨハネ福音書ではマリアの神性が語られている。「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(26節、27節)。イエスは十字架で息を引き取る寸前に母と呼び、マリアへの愛を示されました。しかし場面は極めて残酷でした。イエスの苦しみが頂点にあり死に至る磔刑、そして息絶えるなかで、普通なら母として泣き叫ぶか、気が狂うところを、マリアは騒ぐことも、涙を流すことさえせずにじっと耐えて見守っていました。イエスと同じ立ち位置にあって神の力が臨んでいたのです。十字架の傍らにたたずむ勇気。これが「マリアの神性」と言えるでしょう。

 私たちは困難に遭遇すると崩れやすい人間としての弱さを持っています。その時マリアに学びたい。『たたずむ勇気』。十字架に耐える勇気です。神さまに全てを委ねるのです。

 受難節のいま、私たちの罪の贖い主イエス・キリストの恵みに感謝し、喜びの内に復活の日を迎えたいものです。

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