2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 9章2~10節

説教要旨   六日の後、イエスさまに伴われた弟子たち、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが連れられて、高い山に登りました。今日の9章2節のところです。

 マタイ4章の「荒れ野の誘惑」の出来事の8節で、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と誘惑した。しかしイエスは悪魔に跪くどころか、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とただその言葉だけで悪魔を退けています。

 9章1節のところでイエスは「神の国が力にあふれて現れるのを見る」と示しました。悪魔が見せつけるこの世の繁栄ぶりを支配することは主イエスの関心を引くものではなかった。むしろイエス様はここで神の国のことを「力にあふれて現れる」と言っているように、弟子たちに終末論的な出来事への関心を求める。それは単に世が滅び、何かしら新しい異世界が来るということよりも、ご自身の姿の変貌を通して、一人一人の刷新が行われることです。3節で「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」が、この「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く」というレトリックは人間が作り出したものではない、人間の力遠く及ばない、ということを示す言葉です。それは神様がなさること神様にしかできないこと。そして神様はご自身しか出来ないやり方で、全てを真っ白にされていく。

 律法学者をはじめとしたユダヤ人が預言者エリヤに期待していること(11節)は、主イエスの言葉でも「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする」が、「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか(12節)」と問われています。もしこの世界の罪深い様相がリセットできない際まで来ているとき、原発の問題は、核兵器の問題は私たちはどうなるのだろう。私たち人間をその世界の後戻しできない歯車の彼方に押し込んでいくのだろうと。そこに悲しみと苦しみが渦巻いています。

 もし苦難の十字架を背負う主イエスが私たち一人一人に赦しのこころ、愛するこころを導き出さなかったら、私たちは共に食らい合い滅びてしまったかも知れない。神は十字架で愛と和解による平和そのありようを表したのです。主イエスの真っ白な衣の輝きは愛の輝きであり、平和の輝きであり、赦しの心の導きでありました。

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