2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 13章31~35節

説教要旨   今日のヨハネ13章33節で、子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう-とのイエスの言葉があり、さらに、しかし続けて『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。とのイエスの言葉があります。もともとイエス様がユダヤ人たちに言った場面は7章34節、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」そう言われたユダヤ人たちはこの言葉を巡ってそれがどういう意味なのかと騒ぎ立てています。

 今日のヨハネ13章33節では、その答えは既に与えられていまして、31-32節に、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。・・・」と示されています。ここでキーワードになる言葉は「栄光」、そしてイエスさまにおけるこの意味は十字架の死と復活の出来事です。聖書の脈絡では、主イエスがおかかりになった十字架の死こそが私たち人間の深い罪の一つ一つの贖いの意味としてしめされることなのです。それとともに、罪のゆるし、愛のしるし。こういうことを神の子は自らの身に負ったということがまさしく栄光だと。さらにいうなれば、復活も栄光なのですが、それは死からの蘇り、死に打ち勝ったと表現される。死の罪の闇に打ち勝ったことです。罪深い人間がこの復活を通してまことに死から、つまり罪からも解き放たれたというのです。こういうことから復活もまた神の栄光のしるしとして言い表されています。

 人間は、この「栄光」をどう見るか。主のお姿を「捜せども、見つけられない」ということの意味はここに関係してきます。つまり人々が輝かしい業績、誇らしい権力のようなものに栄光を見るならば、主イエスのお姿を決して見いだすことは出来ないでしょう。何故なら十字架につかれた主のお姿は人の目にはそれとはほど遠い無惨なみすぼらしいお姿を示しているからです。けれども、神にあって信ずる者の目にはこれほど尊い愛の贖いの姿はない。主イエスはここから「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との命を私たちに授けるのです。

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