2011年3月20日 の説教



 聖書

 エフェソの信徒への手紙 1章15~23節

説教要旨   主イエスは山上の説教、マタイによる福音書6章のところで主の祈りを教えられましたが、この時、皆と一緒にする祈りについて、「偽善者」のように目立つところで、自分の徳が高いこと、人格者であることを見せびらかそうとするようであってはならない、また異邦人のようにくどくどと述べてはならない。簡潔な祈りであるべきことをも示しています。また祈りというものには状況があり、みんなで一緒に祈るときもあれば、一人で祈るべき時もある。マタイ6章6節には「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と示している。密やかに、神様と自分だけで祈りを交わすという、こういった祈りの時があるいは必要なのだと。そして神様とのこういう祈りを重ねていくときに、つまり自分と神様との向かい合いのこの祈りの時に、実は祈りのうちにさまざまな友の姿が見えてくることになります。

 本日のエフェソの信徒への手紙1章15節以降には、そのようなパウロの祈りの中に現れてくる友の姿があります。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」・・・パウロは、エフェソの信徒の人たちをこうして祈りのうちに思い出して絶えずの感謝をしているのです。で、このエフェソの信徒への手紙はどういう状況でこのメッセージが書かれているかというと、この時パウロは実は牢獄に囚われている。とても自身辛い苦しみの中からになっている中からこのメッセージを示している。ところがパウロは我が身の苦難をもろともせずに、ここでは喜んでいる。祈りの度に、エフェソの人たちのことを思い起こし、しかも、この兄弟姉妹が、主イエスを信じ、すべての主につながっている兄弟姉妹たちを愛している様子を知って喜んでいると示すのです。

 たとえ我が身がどのようであろうとも、1章19節の「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」との示しのように、不幸不運をも祈りの力にたくして喜びに変えていく、ここに神の力は一時の艱難辛苦をも乗り越えさせ、恵みと慈しみのもたらす溢れる愛の豊かさにおいて、十分に満たされるものなのだと知らせています。

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