2011年3月20日 の説教



 聖書

 使徒言行録 2章1~11節

説教要旨   旧約聖書の創世記には、神が人間をおつくりになる場面があります。神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(2:7)。この創造の最後の段階で神は、その鼻に命の息を吹き入れられ人は生きる者となったとあります。この命の息のことをヘブライ語でルアッハと言います。ギリシア語との意味連関で、このルアッハはギリシア語では、プネウマ(霊)として、本日の使徒言行録の4 節で一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、の霊に対応します。使徒言行録では弟子たちにこの聖霊が与えられます。この聖霊の与えは、新しい命を意味する。新しい・いのちとは、何か。

 旧約聖書の創世記1章26節で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という神の言葉は、神に似せた、限りなく神に近い存在としての人間を私たちに印象づけています。しかしこの人間は、神に反抗する存在となり、神の言いつけに背く事件がおこりました。エデンの園で善悪を知る木の実を食べたのです。創世記は神話的な表現をとっていますがそこで神ご自身が懸念されているのは、神ご自身に限りなく近い人間が、神ご自身のように愛によって貫かれた姿をとっていない、ということであります。ここに人間の欠けがあるのです。

 善悪を知る者となったとはいえ、人間がこの世界の主人になったときに、この世界は争いのただ中に突入してゆきました。アダムの子カインとアベルにおいて争いの端緒が開かれていきます。この命を損なう存在となったとき、人間は土塊にかえってしまうのです。

 使徒言行録1章4節でイエス様は弟子たちに、新しいいのちとしての聖霊の与えを約束されました。弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と問います。それは「イスラエルのため」という民族的エゴ向きだしの弟子たちの問いであって、そういう偏狭なナショナリズムをイエス様は否定します。むしろ聖霊は、1章8節にあるように「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」道を開いていく。この聖霊の息吹は新しい人間、国家社会を飛び越え神の示すところへと突き抜けていく新しい人間であります。そこに語られていくのは人間のわざではありません。神の言葉、神のわざです。聖霊は平和と友愛のしるし、神の愛のしるしを伴って、弟子たちに与えられたのです。

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