2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 1章9~11節

説教要旨   聖霊を表すギリシア語の中でパラクレートスという語が用いられることがあります。これは傍らに呼ぶという意味で、弁護者と翻訳されます。その底意に共にいる、一緒にいる、という意味が伴います。

 人間の世界の中での弁護士というものは、依頼を受けた人の立場に立ち続ける。時には世間ではなぜこんな被告人の弁護をするのか、という人の側に立って弁護をすることもあるものです。

 旧約聖書・創世記18章で神が悪しきソドムの町を滅ぼそうとしたとき、アブラハムはもしその町に義人がいたらどうなさいますか、と交渉して、神を思いとどまらせようとします。弁護とはそれと似たようなところがあります。これはアブラハムの執り成しというように言われるが、聖霊に関してもよくこの執り成しという言葉が使われます。

 私たちは人間ですから完璧ではなくむしろ責められるところが多い。聖霊はそういう私たちのぐらつきやすい信仰のありようを支える、と理解したらよい。私たちは自分の罪深いことを知っていますから、神様にうまく申し開きができない。聖霊はそれを私たちに代わって代弁する支え手です。そのままでは裁きにあってしまうような私たちのありようから導くこの聖霊の力は愛だということができるでしょう。罪人をかばったがゆえに轟々たる非難を受けるかもしれない。ある意味では主イエスが私たちの罪のあがないのために自ら十字架につかれたのと同じようなところに聖霊も立っているのです。

 ナルドの香油の壺を叩き割って主イエスのためにその香油を使った女性はイエスの弟子たちから責められました。(ヨハネ福音書12章)弟子たちの論理としては、その高価な香油を売り払って得たお金で貧しい人たちを助けてあげることができたはずだ、というのです。なるほどそれは正当性があります。しかしイエス様は愛においてその一方で人を裁くような愛し方を教えません。この時も、香油を注いだ女性をかばい、なぜこの人を困らせるのか、と弟子たちに問いかけます。これがパラクレートスです。共にあって、かばい、自らが矢を受けても守るあり方です。そのような愛に貫かれた主イエスを神はこれぞわたしの愛する子と宣言し聖霊が鳩のようにここに降って来るありようの中で、父、子、聖霊なる神が愛という本質を互いに分かち持って、私たちの現実の信仰の中に働かれ、私たちを支えてくださることを示します。

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