2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 6章1~13節

説教要旨   ふるさとにお帰りになったイエス様は、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言いました。故郷ナザレで安息日に(ラビとしては当然ですが)教える者のつとめとして、律法の巻物を読み、会堂で教えをなさった。多くの人々はそれを聞いて、驚いて「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、・・・の兄弟ではないか。・・・」このように、人々はイエスにつまずいた、とあるものです。ここにある「つまずいた」とは、スカンダロンというギリシア語で道ばたの石ころを意味します。ここでの石とはイエスさまであり、この石に躓くこととは、つまりナザレの大工のようなものが、ラビのように教える者となり、奇跡を起こす者となったことが飲み込めないわけです。到底受け入れがたい。それが家族親族やナザレの故郷人たちの状態です。

 5-6節には「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」とあります。ギリシア語原文にもはっきりと「できない」という言葉があります。荒れ野の誘惑での悪魔の試みのところ(マタイ4章)でも、イエス様は、盛んに神のわざを引き出そうとする悪魔の試みに対して神の言葉のみでそれに対抗しており、神のわざを行うことはなかった。もし故郷の人々を無理矢理納得させようとするならば、神の御業を連発して神々しいお姿で君臨すればよいのですが、そうすることをむしろ聖霊(神)から差し止められたとみるべきである。この人々がその罪深きありようを悔い改めるのは主イエスを十字架にかけられた後の復活をまたなければならなかった、ということでしょう。

 それにしても、この人々の不信仰に、主イエスは驚かれたのです。神のみ言葉に背く人間の不信仰の根は深い。それがナザレ人たちであれ、それ以外の者であれ、神を驚かせるような有り様を私たちはもちたくないと願います。むしろ神に喜ばれる道とはどのような道であるか。それを信仰を求めつつ辿り行く者とならせてください。

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