2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 6章14~29節

説教要旨   本日の聖書を読むときに、イエスの名が知れ渡るにつれ「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と人々が言っていた言葉は、ヘロデ・アンティパス王の耳にも入り「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と戦々恐々としている様子が伺えます。ヘロデがバプテスマのヨハネを処刑した理由は本日の箇所に詳しく述べられています。

 イエスに対しての噂は他にも「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もあったというのですから、よほどこのことはヘロデにとって後ろめたいことだったに違いありません。もともと20節にあるように「・・・ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた・・・」というような関係が真実であるならば、自らの倫理問題を追及されたときに彼は即座に悔い改めて、悔い改めの洗礼を施されるべきだと思います。それほどまでにヨハネを慕っていたのに、妻の示した恐ろしい要求の一言でいともあっさりとヨハネの首を見切るほどに、まさにその程度のものであったのか、ということです。ここに福音の言葉がどれほど見くびられたものであったかを私たちは示されるのでは無かろうか。もし真実にヨハネを処刑したことを猛烈に後悔し、海を開いたモーセのような「昔の預言者のような預言者」の奇跡の力を主イエスに見ているならば、ヨハネに対する非礼を詫び悔い改めて、信仰の道を求めて主イエスの前に進み出るべきである。

 しかしルカによる福音書13章31節にあるようにイエスを殺そうと目論見、イエスにこう語らしめている。「行ってあの狐(ヘロデ)に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だがわたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」

 まことに神を畏れる者としてあの十字架を見上げるときに、主イエスはどのような存在として受け取られるのでしょうか。苦しみもがきの中にありながらも(それは私たち自身の罪にあえぎもがき苦しむ様でもあろうが)、神の子として示された十字架の愛の姿、赦しの姿を受け取りなさいと示されていることをじっと心の眼、心の耳を澄まして受け取ってまいりたい。そこに一人一人への神の静謐な眼差しと澄んだ御言葉を通して、永遠へと促す、そうした神の姿が真実に示されていくのではないだろうか。

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