2011年3月20日 の説教



 聖書

 テモテへの手紙一 3章14~16節

説教要旨   その弟子、同労者、信仰の子どもであるテモテにパウロはどのように神の家で生活するべきか知っておいて欲しい、と期待しています。ここで神の家とはギリシア語ではエクレシアという言葉すなわち教会です。

 このエクレシアという言葉を考えるときに、旧約聖書(LXX)ではもともとイスラエルの人々の集り(カハール)を意味する語の訳語であります。そういうことで言うならばもともと教会とは人の集まりなんです。これはよくよく心に留めておくべきであるのは人の集まりということは、集団としての罪深い事柄に戻り陥りやすいということでもある。教会はクリスチャンの集団だとはいえ、クリスチャンと雖も神ではないのであって、神のものになったという意味を込めて神の子と呼ばれることはあるけれども、それで何か特別な能力者になったわけではないのです。

 そういうエクレシアの両義性を見るときに、例えばコリント教会のことを考えますときに、それは人の世のオンパレードを見るようであって、倫理にもとる行いや、争い沙汰で裁判が起こる。世の中の人と人との関係とそうそう変わるところのない集会のありさまだったものですが、パウロはそういうところでテモテが心得ておかなければならないこととは、具体的な人と人との仲裁の技術やらなんやらを言うのではなくて、神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会であるという示しでした。その真理の柱であり土台であるとはキリストに集中することであり、それを信心の秘められた真理として受け取ること、とパウロは語っております。

 信心の秘められた真理とは、あなたがたが信じることというよりは、信仰そのものが神からあなたがたに与えられているものであり、それはその中にイエス・キリストがいるような信仰だという意味です。つまり人が人にとってキリストとなるような信仰であると。そういうときに、各々の中にキリストがいましたもうことをしっかりと受け入れていかなければならない。

 このことを、コリントの信徒(1)3章10節では「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」とある。この土台を自らの信仰にしっかりと据えられているとの思いにより、神の家で過ごすよう、勧められています。

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