2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙一 12章14~26節

説教要旨   第一コリント12章27節には「あなたがた(教会)はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。一人一人が生きた神の信仰をもって形作っている教会はキリストの体として生きている。一人一人がその部分(例えば手や足)であるというときに、その各々の働きは違っています。その働きは神様よりそれぞれ与えられた「賜物」の働きの違いであり、神の眼から見るとその優劣がつくようなものではありません。

 ところが、21節の言葉を思うに、「目が手に「お前は要らない」というような議論、頭が足に「お前たちは要らない」とも言うような現実が、わたしたち人間の世界・社会にはあり、そこで「要らない」と否定され存在が認められない人(たち)がいることは事実です。聖書はそのような人たちが「かえって必要なのです(22節)」と示し、これは「ほかよりも弱く見える」とは人間の価値判断(偏見)であることをはっきりとさせています。

 しかしその価値判断をする前に、私たち一人一人が神の前に存在しているというこの存在の意味があることは何人においても否定し去られることはできません。

 そして重要なのは、そのような一人一人が一つの体としてのつながりをもっている。「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです(20節)」。だから私たちは実際たとえとしてのそれぞれの部位がなくなればとたんに困る。自分の体のどこそこを失ったように痛いと感じ、それが大切な存在だと理解するわけです。これは私たちがお互いの存在に対する愛であり、この愛を失うならば、つながりを失うどころか、存在そのものでなくなる。このことをコリントの続く13章2節の言葉は「愛がなければ、無に等しい(もしわたしが愛をもっていないなら、私は存在しない。NEB訳)」と示しています。

 愛をもっていない人間は、存在しないも同じこと、とは大変厳しい言葉ですが、逆にいうなれば、キリストの愛をもってしてみると、一人一人の人間の存在の重さということがよく分かってくる。

 「安息日のために人があるのではない、人のために安息日がある」とイエス様は示し、たとえ1匹の迷子の羊のことでも、他の大勢を放り出しても探しに行くと言ったのです。そうしてつながり重んじあうお互いであるからこそ、私たちは互いの悲しみ苦しみも、そして喜びも分かち合う(ローマ12章15節)。そこでそれは「互いに配慮し合い・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ(26節)」という思いに至ります。

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