2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 11章25~30節

説教要旨   真の安らぎは「自分の荷物をイエス様の前にもっていく」ことで得られるものです。当時、イスラエルの民には天国に入るまで、守らなければならない掟、ルールが613項目もありました。 そして、これらの掟を守らない人々を知識層の書記官やファリサイ派の人々は罪であると判断していました。当たり前のように伝えられてきた伝統的な律法がイスラエルの民にとっては重荷となっていたのです。そこでイエス様は、私たちに新しい提案をされました。私たちが持っている重荷を全部、イエス様に持って行き、イエス様に任せるということです。私たちが持って行くところは、専らイエス様の前です。

 真の安らぎは、イエス様の軛を負うことです。ヨハネの手紙一、5章3節では「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」と書かれています。愛の軛は決して重くありません。特にイエス様と共に負う愛の軛は易しいものです。また、イエス様は愛の軛を負うだけではなく、自分に学びなさいとおっしゃいました。それは「柔和」と「謙遜」です。柔和とは、単なる優しさやおとなしさを意味しているのではありません。卑怯な手段や卑屈な態度でもありません。これは相手から妨害されても、堂々と自分の権利や立場を訴えるということです。また謙遜は自分の弱さを悟るということです。他人を私より勝る人だと思い、取り柄を学ぼうとすることです。これらは、私たちがイエス様から学ぶべき信仰者の姿だと言えます。

 真の安らぎは生まれ変わっていくための原料となります。主日とは、主なる神様を崇める日です。この日は、私たちにとってスピリチュアルな再充電の日にならなければなりません。忙しかった日常生活から解き放たれ、やっと神様に向けて集中することができる時間であるからです。信仰が深まっていけばいく程、生まれ変わりたい、もう少しイエス様に倣いたいと思うことは自然なことです。その大切な思いを支えている教会は、私たちの信仰を確認する場所として、またスピリチュアルな再充電を行う場所としての役割を果たさなければなりません。

 最後の真の安らぎは、子どものような心を持つことで得られるものです。25節は、神様の独断的な態度で、ある人には見せてくださる、ある人には見せてくださらないという意味ではありません。神様が誰に真理を表しているのかではなく、誰が神様の恵みと憐れみを受けているのかに対する教えです。人間の知恵では神様の全てを計り知ることはできません。しかし、幼子のような者になるならば、神様のそのままを受け入れることができます。その際に必要となるものは、柔和と謙遜です。私たち一人一人の信仰が、真の安らぎの中で、益々成長や成熟していくことを切に願います。

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