2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 12章1~12節

説教要旨   イエス様はこの10節のところで、『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』と示しています。

 隅の親石とは、建物の基礎の部分で全体を支え固定する石、重要なかなめ石です。ところが、ここでは『家を建てる者の捨てた石』とあるので、家を建てる者はそれが隅の親石だとは分からずに捨てた。家を建てる者はそういう「隅の親石」に気づかないわけがないが、これは例えであり、。しかし実はその石が「隅の親石」であった、というのです。この例えには、人間がその正体が分からずに捨てた「隅の親石」だと、これは神様がなさったことであり、わたしたちの目には不思議に見えることであると示しています。

 この聖書の示しの脈絡でこの「隅の親石」となったのはイエスさまです。もっというと神の子、救い主です。それが神の子だとは気づかずに罪深い人間はイエスさまを十字架につけて殺した。この「隅の親石」の存在にはみんな気がついていないのです。イエスさまとはそういうように、私たちがそれと認知できないような、人の常識や認識の向こう側に神の子としてある。神もそうです。それで、そうとは知らず、捨てたという意味の脈絡は、本当に神の子だった、とは知らずに十字架につけた、という脈絡に通じる。

 それを示すたとえ話の脈絡では、今日のこの乱暴な農夫たちに対して、神様は6節で「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。(ところが)農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」殺されてしまった息子は、十字架で殺された主イエスと脈絡が通じます。そのように私たちの現実の中で、私たちは主イエスを見失う。そして神を見失うのではないか。

 マタイ27章54節で、十字架で死なれた主イエスを見上げて「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った、とあります。

 私たちに求められているのは、神を神として見る謙虚さを失ってはならないという示しではないかと考えさせられます。

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