2011年3月20日 の説教



 聖書

 マルコによる福音書 14章1~9節

説教要旨   マタイによる福音書4章の1-11節の場面で主イエスを誘惑する悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と試みた時、イエス「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とお答えになりました。神の力をもって石をパンに変え、「見よ神の子のわざだ、これにひれ伏せ」と悪魔を駆逐できたのではないかとも想像できます。この対話の中で悪魔は神のわざを求めてきますが、主イエスは「人は何で生きるか」というような生き方の問題で応えています。そして、この生き方の問題として、パンのみに生くるにあらずと。つまり即物的な生き方ではなく、「神のみ言葉で生きる」ようにしなさい、という教えの一端を開き示す形をとっているのですね。「神のみ言葉で生きる」「神を信頼して生きなさい」ということです。

 この世で求められるものは、即物的なありようが中心であります。今日の聖書の箇所でも、即物的なありようが求められています。一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた行為に対して、そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と非難し彼女を厳しくとがめたのです。「貧しい人々に施す」ことを名目にはしていますが、結局のところ、人と人との関わりを実利的な即物的な観点からしか理解し得ないありようとしか見ることが出来ない、ここに人間世界の悲惨な現実があり、実利的なものの見方が全ての争いのもととなって歴史が重ねられてきたのです。ヨハネ福音書では主イエスを十字架に追いやったあのユダがこの憤慨した人々であったと解釈していますが(ヨハネ福音書12章1-8節)、彼もまた人間を即物的な関係としか捉え得ず、主イエスに失望して、その関わりの対価を慌てて銀30枚にすげ替えた人でした。

 もうすぐご自身十字架におかかりになり人々の罪の贖いのため、自分の命をそれと引き替えにせざるを得ない主イエスの悲しみの心に唯一この女性は寄り添って思い立ち、香油を惜しげもなく主イエスに注ぎかけた。彼女には、主イエスの様子、これから辛い死の苦しみに赴こうとしている人の心の痛みが自分の身にしみて分かったのです。そして彼女は、今から死出の旅に向かおうとしている主イエスを彼女なりのやり方で、神を愛したのです。心を尽くし、思いを尽くして神を愛し、隣人を愛す心がこの女性の関わりの中にしっかりとある。神様は心あるひとりひとりの神様への愛の関わりをしっかりと受け容れてくださいます。

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