2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヘブライ人への手紙 9章23~28節

説教要旨   今日のヘブライ人への手紙をみてまいりますと、この25節に強調的にして、ユダヤの大祭司と、キリストとは違うのだということを描いています。

 ユダヤの大祭司とは、イスラエルの中で宗教・政治的にも一番権威・権力ある者であります。エルサレムの神殿の最も奥にある至聖所という場所に入ることが出来る特権をもち、年に一度そこに入り、その祭壇の四つの角に屠ったばかりの動物の血を振りかけてイスラエルの民全体の罪の贖いをする。ユダヤ人たちはそれをありがたい罪の贖いをなす者としてこれに権威を認めていました。そうした祭儀だけではなく、サンヘドリンというユダヤの最高法院の議長を兼任し、はたまた主イエスを捕らえ、十字架の死に追いやった主導的な働きをなしたのもこの大祭司であります。

 しかしこの手紙では、エルサレム神殿と権力者大祭司という構図に対比し、「まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入(られる主イエス)」(24節)とを対比させている。大祭司がなす犠牲動物の血による贖いを23節では「天にあるものの写しは、これらのものによって清められ」と表現しますが、同節で「天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえ(イエス)によって、清められねばなりません(十字架の贖い)」という脈絡で対比し示しています。ヘブライ人への手紙の著者がヘブライ人(ユダヤ人)へこうした対応関係を示すのは、ユダヤ人たちが地上で最も権威ある者として大祭司を位置づけているのに対して、自らの身をもって全ての人の罪の贖いの犠牲となられた真実の大祭司たるイエスは天の国における権威者であることを表しているのです。

 地上の利害によって動く者、政治的な駆け引きで主イエスを十字架に追いやった所業をもってすれば底が知れているような存在である大祭司に対して、キリストは「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる(28節)」。この救いこそは、既に人の子としてご自身が地上にあったときに、悲しむ者、心の痛みをもつ者、救いを渇望する者、蔑まれた者と共に歩まれた主イエスを通して、神がその御心をイエスにおいて成し遂げたということにこそ、私たちはこの歴史の中の示しに真実を見出すものです。

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