2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 5章1~12節

説教要旨    山上の説教でマタイ5章8節には、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と示される主イエスの言葉があります。「心の清い人々」ということで例えばどのような人かとは一概に考えにくいと思われます。その上で敢えて旧約聖書をひもとくと、その登場人物にエノクという人があり、この人は創世記の4-5章のアダムの系図に登場してくる人物です。

 エノクで注目されることは創世記5章23-24節「エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」との箇所です。他の系図列の例では800-900年の寿命があるのにエノクだけ極端に短く、「神が取られたのでいなくなった」との示しは、伝統的な理解では、例えばヘブライ11章5節、「死を経験しないように、天に移され」それは「神に喜ばれていたことが証明されていたから」との示し、続くところにはノアやアブラハムのいわゆる信仰深い義人が列せられています。旧約偽典のエノク書ではエノクは神に「義なるエノクよ」と呼びかけられ、堕天使を審判する神のメッセンジャーでもありました。

 しかし同時に、義人列伝の一人としてエノクのような人物をなぞるというだけでは、「心の清い人々」を素描できないのも確かで、エノクに関しては創世記のもう一つの系図4章17節をも読み込むべきで、ここでは、系図的な脈絡が5章とはまるで合わないのだけれども、そこではエノクはカインの息子として出てくる。アダムの息子カインと言えば、弟アベルを諍いの末殺してしまった兄、人類最初の殺人の罪の重荷をおった者です。しかし神はそれを諫めてカインを悔い改めに導き、この重荷に絶望するカインに赦しのしるしを与えて(4章15節)、生きることを赦された。このカインの悔い改めと赦しの信仰に生きていくありようは、幼い子エノクのまなざしにどう映ったであろうか。赦されたカインを見て育ったエノクという脈絡は何と深い黙想を私たちに広げてくれることでしょうか。

 エノクという名前もこのカインの思いから生じたのではないか。ヘブライ語で「従う者」の意味です。神に従う者。この歩みをその人生の経緯と天に駆け上った終焉の時を見させていただく時、私たちの人生の歩みもまた励まされ、神様の御前に促されていく者であることを思います。互いに信仰にある思いをもち互いに励まし合いながら歩み行く私たちでありたいと願います。

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