2011年3月20日 の説教



 聖書

 マタイによる福音書 2章1~12節

説教要旨   イエスの誕生の出来事に当時、ユダヤの王として君臨したヘロデ大王がでてきます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」との言葉に不安を抱き、祭司長たちや学者たちを集め、この新しい王たる者の誕生の地を特定しました。旧約聖書ミカ書の預言に基づきそれはベツレヘムであるとの予測が建てられました。御子の生誕の出来事を示すマタイやルカの福音書もそのように示し、ヨハネによる福音書でも、イエスがベツレヘムに出生したことが示されております(ヨハネ7章42節)。

 ベツレヘムから現れる牧者、羊飼い、翻ってメシアとなる者は、タビデが昔このいと小さき町に現れたように、人々の期待する思いを集めるものでありました。それはちっぽけな羊飼いの少年であった者(ダビデ)が、イスラエルを神の王国に相応しいものへと整え国力をつけた。そのような王として今日もユダヤ人達が敬愛しているのがこのダビデ王であります。

 一方その後、このベツレヘムから現れた牧者、主イエスは最初ユダヤ王ヘロデから恐れられ、その命を抹殺されんとつけ狙われましたが神によって守られて成人しました。その神のことばの新しき意味を示し、また多くの病人を癒し、尊敬を受けたのも束の間、一転して人々から疎まれ、群衆は今や恐ろしい集団となって、ユダヤ教権力者たちの思惑に動かされ、主イエスを十字架の死に追いやれと叫び、殺してしまった。このイエスは人々の罪の贖いを成し遂げるために憎まれ蔑まれ敢えてこの十字架の道を神の示しによって進まれたのです。それはあるいはメシア待望を願う人々の期待とは裏腹であったかも知れない。しかしそこにあった神の意図は、小さき人々、蔑まれ苦しんでいた人々、悲しむ人々の慰め主として共に歩まれる牧者の姿でした。それはダビデのように一国の王たる者、威厳に満ちた者としての救い主メシアの風貌ではありませんでした。

 イザヤ書53章には、イエスには王としての輝かしい風貌容貌も権力もなかった、このイエスはいと小さき牧者と示しています。しかし彼は人間の罪深き咎、罪科の重荷を背負い尽くし身代わりとなって十字架にかかった牧者でありました。私たちは神の愛に背き多くの罪を重ねて歩んだこの一年であったかも知れません。しかし主イエスが今年も私たちと共に歩んでくださった。それを覚えて感謝をし、新しく迎える年、主のみ心にかなう歩みでありたいと願います。

礼拝の説教一覧へ戻る