2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 3章15~22節

説教要旨   バプテスマのヨハネの主イエスに対するイメージは「聖霊と火」の洗礼を授ける方、「殻を消えることのない火で焼き払われる方」との言葉で、ここに火が示され、火というのは、それで罪を徹底的に滅ぼす権威あるお方を表す、少々厳しいイメージを持っていたようです。もし洗礼を悔い改めと清めと捉えるだけなら、水の象徴だけで十分であるし、ヨハネによる福音書3章5節のところでも、主イエスご自身が「誰でも水と霊によって生まれなければ神の国に入ることは出来ない」と語り示しています。しかしこれは、初代キリスト教会における罪との戦いの神学的表現において、主イエスに決然とした権威を表したものなのでしょう。

 主イエスご自身が洗礼を受ける場面は「民衆が皆洗礼を受けイエスも洗礼を受けて祈っておられると天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」との出来事が各福音書共通に記され、それはペトロ第二の手紙1章17節にも出てくる証言です。人々は、15節にありましたようにバプテスマのヨハネをメシアではないかと考えていましたが、主イエスについても、様々な呼び名をつけました。福音書の中で興味深いことは、マタイによる福音書でヘロデ王が恐れていた新しくお生まれになられる「ユダヤ人の王」との言葉が、主イエスの十字架でも「ユダヤ人の王」と示されたことです。福音書の最初の物語と最後の十字架で人々の思惑にあるのは「ユダヤ人の王」という言葉によって福音書全体が括られている、という構図であり、結局人間は、イエスを救い主、キリストと告白できない現実に据え置かれている、ということでしょうか。

 そういう人々の見方の一方で、神の声は、これはわたしの愛する子だと示し、主イエスもまた神に「アバ、父よ」と語りかけました。ここには神と人(神の子)とのファミリーの関係があるのです。

 親子関係の崩壊ということが叫ばれて久しいこの時代に主イエスと神との関係に父と子を類比として示されることは、この呼び交わしに全く新しい地平を開いていきます。私たち一人一人もマルコ3章35節の、神のみこころを行う人こそ、私の兄弟姉妹また母なのだというイエスの言葉、あるいは第一ヨハネ4章7節「愛するものたち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者はみな神から生まれ神を知っているからです」との示しのように、神の家族として愛の深みにおいてつながっているのです。

礼拝の説教一覧へ戻る