2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙一 4章8~16節

説教要旨   今日の聖書、第1コリント4章8~16節には二つの生き様が示されており、その一つは8節にあるような大金持ち、王様になるような有りようです。そして10節に示されている「あなたがたはキリストを信じて賢い者となっている」のはその当のコリント教会の人々なんですけれども、それは14 節に「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく」とあることを考えるとき、一つにはコリント教会をいさめるような言葉としてありつつも、14-16節にあるように、「愛する自分のこどもとして諭すため」であり、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけた」のです。そして、16節で、「あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」とはどのような有りようなのか。

 ここに描かれているパウロの姿は世の屑であり、滓である、という。それは神がそうなさったのだとパウロは言っています。もし神が黙って何もしなかったならば、自分たちは同じように王様にでもなりはしただろうと。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。・・・わたしたちはキリストのために愚か者となっている。(9,10節)」このキリストのための愚かさ、ということをパウロは何度も語っています。1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と示されている。

 以前、キリスト者を迫害する者であったパウロがダマスコに向かおうとしていた時に、天からの光がさしてきて、それに目をくらまされているうちに声が聞こえた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか、わたしはあなたが迫害しているイエスである」と。この出来事は使徒言行録9章にあるパウロの回心の出来事です。ここからパウロは180度反対の生き方をするようになる。それまでのパウロはファリサイ派的な生き方であり、その眼で見るならまさしく今日のパウロたちの有りようは屑・滓と言われよう。

 「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼ぎ、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返す」という。十字架のキリストの姿を思い起こします。どのように世に言われようとも、キリストがこうだと指し示した道にパウロは進んでいく、あなたがたもそうなりなさいと。真直ぐにキリストを信頼して歩みなさいと。なかなか私たちには厳しい道かもしれません。けれども、パウロはそう励ましています。

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