2011年3月20日 の説教



 聖書

 使徒言行録 3章1~10節

説教要旨   アッシジのフランチェスコの生涯を見るときに、彼は空の鳥、野の花を指し示すようなあり方を目指したが、それはマタイ6章の山上の説教にあります主イエスの言葉で「・・・自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。・・・空の鳥をよく見なさい。・・・野の花がどのように育つのか見なさい(6章25~)」に示されたからでした。

 あるいは今日のペトロに表れる言葉には「わたしには金や銀はないが(3章6)」というものは、初代のキリスト教会のありかた、生き方として表れた言葉です。イエスの弟子たちが当時は、本当に彼らには金や銀もなかったし目に見えるものは何も持たなかったのだけれども、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言った。この唯一持っているものという、ナザレの人イエス・キリストの名というものは、確かに目に見える何かではなかった。金や銀のように目に見える形をとらなかったんだけれども、それは神様の業のことだった。そしてペトロたちはそれをもっていた、というから、これはすごいことで、これを与えることの喜びをこのところで共有します。

 物質的であるかないかに限らず、他人から愛情もって何か与えられるというのは、人間としては必要なこと、必要な経験だろうと思いますけれども、それさえも乏しい現実があります。更には、神様への、というか神秘的なものへの感謝という感情が起こるということはもっと乏しい。私たちが聖書のみ言葉によって示されることは、人間が神秘的なものに出会い、接し、また与えられる、そしてそこに起こってくる感謝の心。こういうことがむしろ大事なことなんだろうと思うのです。

 現代にあって、私たち人間は金や銀の方が力を振るうような世の中で何とかなろうとしている様相です、つまり物理的なことで当然のようなやりとりで人間の力が振るわれている、というような世界の中に生きており、この世界の中で人間の力を過信して生きております。しかし、たとえ金や銀はなくとも、キリストの愛、辛い人、苦しむ人、悲しむ人をたたせる愛の力、優しさ。神様にあってそれこそが私どもの立ち歩んでいく道のりであると心から信じてまいりたいと願います。

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