2011年3月20日 の説教



 聖書

 テモテへの手紙二 2章8~13節

説教要旨   今日のテモテへの第二の手紙2章13節には、「キリストは御自身を否むことができない」とあります。私たちがこのレント、十字架に向かう主イエスの道行きを思い辿るとき、一つにはゲツセマネの園における、キリストの嘆きの言葉を考えさせられる。その時イエスは、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』(マルコ14:36-37)」と祈りました。「この杯」とは、10:38節で言う「わたしが飲む杯」に同じく十字架の死(マルコ10:34)を意味するのものです。ゲツセマネにおいて、激しい自己矛盾に引き裂かれそうになりながらも、主イエスは「御心に適うことが行われますように」と祈った。主イエスの杯への自らの祈り願いは、神に退けられることもヨシとする祈りであった。この祈りのルーツは母マリアの祈りとして、私たちはルカ1.38に、「お言葉どおり、この身に成りますように」との言葉にそれを見受けることが出来ると思います。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」との本日の言葉で、私たちは人間の死を神が痛みとして共に引き受けられたことをここに見、神の十字架での苦しみ、その痛みは私たちへの罪のあがないのための出来事であったことを思います。

 パウロは、イエス・キリストの福音のために苦しみを受け、自ら犯罪人のように鎖につながれているが、神の言葉はつながれていない、と示しました。

 その昔より人間を奴隷のようにつなぐ苦しみの鎖をパウロも経験したのだが、キリストは常に真実であられることの中で、まさしく神の言葉はこのような鎖につながれいはしない。深い罪闇の現実の中にあって、神の言葉は私たちを真実に解き放つ神の深い愛に満ちているからです。

 神が人間を救う尊い愛の救いの御心であったからこそ、主イエスは神の贖いのご計画を自ら受け入れそこに心を定めたのです。

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