2011年3月20日 の説教



 聖書

 コリントの信徒への手紙二 3章4~18節

説教要旨   第二コリント3章のはじめには、推薦状という言葉が頻繁に出てきます。それは今日の4節にある「確信」があってこそ、真実の推薦となります。

 パウロは、手紙の中で、自分とコリント教会という共同体の関係を言い、その間に、キリストが介在してこの手紙の文字は生きている。冷たい石の板に書かれた文字ではない。霊の文字だ。心に書かれた文字だ。読む人の心に直接記されていくような文字、そのような生きた言葉だと示しています。それはハートに刻まれていく、生きた言葉だと言うことです。

 「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします(6節)。」

 文字が文字のままではそれは死んだものとなり、それを機械的に守るものを殺しているというこのパウロの主張は、ものすごく過激ですが確かなことです。  

 例えば、律法主義と呼ばれているものは、ファリサイ派等のありようがそう呼ばれ、それは安息日に人々が労働していないか、監視の目を強めていました。律法は出エジプト記20章に出てくる十戒を中心にしていますが、それはモーセが神との約束をなした教えで石の板に刻まれました。今日の第二コリント3章7節の「石に刻まれた文字」とはこのことを指します。それはモーセが十戒を受けたときには生きた文字であり言葉だったのに、人々を監視し裁くファリサイ派のような律法主義と成り下ってしまった。

 14節には「彼らの考えは鈍く・・・今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれる・・・」とあります。それはファリサイ派の律法主義のようなありようを言うのですが、この覆いとは、心に覆いがかかっているので、心にアクセスすることが出来ない。心にコミットすることが出来ない。「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています(15節)。」と示されています。

 確かにコリント教会には様々な問題がありましたが、それは常に神様の言葉との緊張感を生み出し、そうであるからこそ手紙の言葉が生き生きと示されていくことにもなるのです。

 心の覆いを取り去り聖書を開けるのであれば、イエス様の言葉が生き生きと語りかけてくる。心に多くの生きた霊の言葉を与えられるのです。キリストの生きた霊の恵みの力に生かされ、神の愛を豊かに表していく者でありたいと願います。

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