2011年3月20日 の説教



 聖書

 ヨハネによる福音書 6章34~40節

説教要旨   使徒言行録9章で、使徒パウロが当時サウロという名前の若者だった時分の話、最初彼はクリスチャンを迫害する者だったことが描かれています。その回心の時、倒れて視力を失ったサウロに主イエスは「あなたのなすべきことが知らされる。」と示されたと言います。

 後の18節で、サウロの目を塞いでいたものはうろこのようなものだったと言うのですが、この話は総じて事物の本当の姿を見極める心を失っていたサウロの象徴的なありようが表れていたのではないかと思わされます。イエスがこのサウロに「あなたのなすべきことが(これから)知らされる」と示しましたのは、十字架と復活の主イエスによって神とその信仰者(クリスチャン)の正しい姿をとらえ、「あなたのなすべきこと」は何かと問いかけることでした。

 さて、5000人への魚とパンの分かち合いを通して、主イエスを食料調達庫のように見做す人々もまた事物の本当の姿を見極める心を失っていた人々です。イエスは言います「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ(26節)。」それは、朽ちる食べ物への欲望に依存しており、神であるイエスに正しく向き合っていない。サウロと同じです。イエスが26節におっしゃった「しるし」についても人々は27節で「いつまでもなくならないで、人の子があなたがたに与える、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」との言葉に反応するが、そこでは欲望=食べ物=満腹のラインで考えるので、「食べ物(しるし)を出すのが神」という順序で思考しています。正しく「神であるから、永遠の命に至る食べ物がそのしるしである」というような思考にはならない。そこで彼らが願いますのは、あくまで欲望として満たされることを成してくれる神をのみ信頼するありようなのです。

 私どもも信仰において、信じるに「見合う」ことを求めていないか、と自己検証の思いを持ちます。信仰とパンの取引をしてはいまいか。欲望は信仰の本質を見失わせるものです。主イエスは、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるもの(33節)」とおっしゃいましたが、それこそ、霊の糧であり、主の祈りで、日毎の糧を今日も与えて下さい、と祈るとき、霊的な意味の天の糧を与えて下さいとの心の内なる祈りがあり、霊的なパンである神の愛、そこにある信仰、望み、愛、こういう全ては神様の霊と一つにつながっています。その心に物質的なパンでは決して満たされない愛の糧が満たされますようにと祈ります。

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