2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 7章11~17節

説教要旨   今日のみ言葉の中で、主イエスは13節でこの母親を見て、憐れに思った。やもめの女性は息子-子どもの存在が生きる慰めとなっていたであろう、その唯一の生きがいを奪い取られたのです。この慰めは如何にして可能か。世の中にはほんとうにこうしたやりきれなさの中を行く深い悲しみの底に生きている人々がいます。主イエスはこの母親を見たときにそうした悲しみがワッと押し寄せてくるような彼女のありように深く憐れみを持ったのであります。そして神ご自身のなすところは、子を生きてよみがえらせ、母親に返さなければならない、ということでした。そして、その出来事はそれを読むことにおいて、私たちもまた深く慰められ勇気づけられることです。

 しかし、この女性には本当のところ周りの人たちの多くが同情していました。12節に町の人が大勢そばに付き添っていた、とあります。更に16節に癒しの蘇りを見た後で彼らのこんな情景が書かれています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」

 この16節ではイエス様のことを「大預言者が我々の間に現れた」と言っています。「預言者」というのは、人々にとってどんな存在なのか。イエスの時代で言えばバプテスマのヨハネがそうです。彼は人々に厳しかった。「悔い改めに相応しい実を結べ、自分たちがアブラハムの子孫だなどと、思ってもみるな」。厳しい言葉です。けれども、人々はこのヨハネを尊敬し、次々と洗礼を受けて付き従っていました。それはこの預言者が単に厳しいだけではない。一方で底辺にいたであろう弱い人々に優しく、まごころをもって接していたのです。預言者というのは、単に神託を受けて災いと悔い改めの預言をするような人というイメージで言うならば、それは間違っています。彼らは、常に救いのことを考えていました。人々が罪の闇から救われ慰められることを望んでいました。この大預言者イエスが我々の間に現れたことによって、「神はその民を心にかけてくださった」ああ、神様はやっぱりいたんだ、我々を愛してくれているんだ、という思いがこの人々にはわき起こった訳なのです。つまりヨハネ3章16節のごとく、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のだと。このように愛されている、という経験を通して、やもめばかりではなく、この聖書の出来事を受け取っている人々全てが、とても大きな慰めの経験を共有しているのです。

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