2011年3月20日 の説教



 聖書

 創世記 2章7節
エフェソの信徒への手紙 6章10~20節

説教要旨   (出口尚弘牧師)
 神がアダムを創られた時「その鼻に命の息を吹き入れられて、人は生きたものとなった」。息という言葉(プネウマ)は、風、神の霊の意味があります。また「祈りとは魂の呼吸である」とアウグスティヌスは言いました。人間は神の霊によって生かされ、魂の呼吸である祈りをする存在です。「どのような時にも、霊に助けられて祈りなさい」とは、祈る時には霊の働けがあるのだよという励ましです。聖霊は実生活では縁遠いものになっているかも知れません。しかし自分の呼吸を見つめつつする瞑想的祈りは、聖霊を身近なものにします。

 瞑想の言葉は聖書には無く馴染みが少ない。しかし瞑想は必要がないといえるのでしょうか?イエスは朝にも夕べにも一人で静かなところで祈られ、荒れ野で過ごされた40日は瞑想の時であったかも知れません。人間は自分の考えや、思い込み、自分の観念に支配されやすいので、考えや観念から自由になって自然や隣人を見つめること、特に自分に気づくことが大切です。

 臨床牧会実習で自分の成育歴を話した時に、母とよく議論をしたが私の主張に母が取り合ってくれないのに腹を立てた経験を話したが、ある教授から、あなたも我々に取り合ってくれませんねと指摘された。そのとき長年自分には見えていなかった自分の姿に気づかされ、その実習を大変感謝しました。また欠点を批判するよりも、そのままの姿で受容されると欠点も消えていくことを家庭でも感じます。

 ヘンリ・ナウエン(カトリック司祭)は、レンブラントの「放蕩息子の帰郷」の絵を見ながら瞑想して、神である父が、弱って目も見えなくなったような老人として描かれていることに驚くが、そこに「すべてを超える神の境地」が表現されていることに気づきます。そして司祭として、自らそのような父になりたいと願いラルシュ・コミュニティ(障碍者の施設)で働きました。

 忙しい時も悩みの時も、時間を割いて静かに祈れば、聖霊に導かれて思いもかけず自分が懐かしい故郷にいることに気づきます。

 「僕は聞きます、お話ください」と、沈黙して神の言葉を聴くこと、同時に隣人の言うことを傾聴し、互いのことを深く理解しようとすることが大事です。「魂の呼吸」をする時、人間存在の根拠、神に触れ、本当の自分に気づき、隣人と真摯に向き合い、互いのもつ優しさや、愛、温もりが生まれます。教会はそんな故郷であり、そこに帰ることを願う祈りをします。

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