2011年3月20日 の説教



 聖書

 ペトロの手紙一 3章13~22節

説教要旨   今日の聖書、第一ペトロ3章13-22節が話題にする言葉に「正しさ」「善いこと」「義」などのことばがあります。

 「もし、善いことに熱心であるなら」、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」「正しい良心で、弁明するようにしなさい」などと出てきます。『正しい』という言葉について、つい先日亡くなられた鶴見俊輔氏が、正義というものの危うさ、ということを示しておられたとのことが新聞のコラムにありました。正義の人は純粋さを追い求め、ついに暴虐に行きつく、と。正しさとは相対的な価値判断であり、様々な社会的立場や人間の状況によって変わります(例えば右翼が言う正しさと左翼の正しさ等)。では聖書の示す正しさとは何を意味していくのでしょう。

 それは15節にあるように「心の中でキリストを主とあがめる」ことの内容として出てきます。それ故に15-16節、「あなたがたの抱いている希望について・・・穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明するようにしなさい。」聖書では人間に対する優しさと愛情が正しさに伴います。それは神がそれらの真心をともなったありようにキリスト者を導くからです。

 マタイによる福音書7章1-6節には「人を裁くな・・・あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。・・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」との厳しい言葉があるが、自己正当化、正しさを主張する前によくよく自戒してゆきたい言葉である。

 ペトロの手紙Ⅰが書かれた当時はローマ皇帝による迫害の事情が伺えるが、この手紙の影響を強く受けた小アジアのスミルナの監督であったポリュカルポスの殉教のエピソードには、ある集会において、密告がありローマの兵士が彼を逮捕に来たとき、少しも恐れず彼らをもてなし、一時の祈りの猶予を求めたという。そのうちにキリストの救いについて語った上で、逆に心動かされた兵士が逃そうと思い立ってもそれを慮って自ら囚われの身に進んでいったという。

 その有り様は今日の13-16節を彷彿とさせるものですが、キリストの正しさ故に相手を非難し罵倒するのではなく、相手を優しさ愛で許しをもって受容していく。まことの正しさは、キリストの救いのゆえに、神の愛があふれるようなありようにおいてこそ、初めて説得をもち感化を与えるものであることを考えさせられます。

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