2011年3月20日 の説教



 聖書

 ルカによる福音書 14章7~14節

説教要旨   主イエスの時代には、食事の交わりの場がとても大事な意味をもっていました。それは食事そのものの分配のこともそうですけれども、それと同時にその人の居場所の問題でもあります。

 主イエスが昇天されたあとの初代教会の食事の一つの問題は、コリントの信徒への手紙(Ⅰ,11章17-22節)などに書かれています。それによればコリント教会では、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であり、こうした差別によって、お互いの間に仲間割れが生じていた、それではあなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いていると指摘しています。

 今日イエス様がたとえているのは、食事の席のことで、ルカによる福音書14章7節で招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、たとえを話されたのです。

 8-9節にあることは現代では、身分の高い低いを言うことはナンセンスですが、この場合招待を受けている訳ですから、招待者の意図というものがあり、そこを度外視できないということがこのたとえの一つのユニークさであります。そこには神様の招きの事柄が含意されており、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」との言葉によって一つの謙譲の姿勢をもってして、ことにあたるべきという示しが与えられています。

 同様のことは招く側に対しても示されており、そこには神の国の招きということが考えられています。宴会を催すときに、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。当時のことからすれば、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人が「お返しができない」という脈絡は彼らが当時最も招かれざる客だったことを示すのではないか。ひいてはこれはこの社会に「居場所がない」状態です。けれども、主イエスの示される神の国の招きのありようは、これらの人々に居場所を与え、そうした優しさによって他者を受け入れるあり方を示したのではないか。そうした人々を招く招き方、そして自らの招かれ方の中に一つの謙虚さと優しさを求めていったのではないかと思われます。それが神のみ心にかなうありかたであることを黙想して参りたいと願います。

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